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*** 欧 州 映 画 紀 行 ***
                 No.046
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「ここじゃない何処か」に行ってしまいたい、あなたのための映画案内。
週末は、ビデオ鑑賞でヨーロッパに逃避旅行しませんか?
フランス映画を中心に、おすすめの欧州映画をご紹介いたします。

★心にためる今週のマイレージ★
++ 不鮮明なものを、不鮮明なるままに ++

 
作品はこちら
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タイトル:「ふたりのベロニカ」
製作:フランス・ポーランド/1991年
原題:La Double vie de Véronique 
英語題:The Double Life of Veronique

監督・共同脚本:クシシュトフ・キェシロフスキ(Krzysztof Kieslowski)
出演:イレーヌ・ジャコブ(二役)、フィリップ・ヴォルテール
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■STORY
同じ年の同じ日に生まれた、ポーランドとフランスのふたりの女性、ベロニカ
(フランスの方はベロニク)。ふたりは顔かたちも背格好も同じ、音楽をやっ
ていることも同じだった。
互いの存在を全く知らないふたりだが、ふたりとも、いつも誰かといるような、
どこか他の場所にいるような、不思議な感覚に襲われることがある。

ポーランドのベロニカは、ある日、舞台で歌っているときに倒れて急死してし
まう。
フランスのベロニクはそのとき、とてつもない喪失感を味わったが、それが何
かは自分でもよくわからない。その日を境に、彼女の身に不思議なことが起こ
り始める。

■COMMENT
よく翻訳不可能な作品、などと文学作品を指して言うことがある。詩や韻文の
ように、言葉上の意味を置き換えてもその本質が伝わらないものや、言葉遊び
が多くて、他の言語に置き換えても意味をなさないような作品がそう言われる。
それに似て、この作品は言語(しかない)メディアに翻訳が難しい。

字幕の翻訳が難しいという意味ではない。どこかに自分の分身を感ずること、
運命に導かれること、ふと未来がわかること。そんな言葉による説明ができな
い事柄が、映画の軸となっていて、ふと挿入される映像や俳優の表情、音楽や、
映像のトーンで、それが見せられる。何が何を指している、などと説明づけら
れないのである。

言葉というのは、基本的に不鮮明なものを鮮明にするものであって、不鮮明な
ものを不鮮明なままに直感で差し出すことには不得手なツールだと思う。
このメルマガも、ある映画を見て、それを面白いと思ったんだけれど、それは
何でなのか、を解明する気持ちで書いている。自分の中でもやもやーっと面白
かった気持ちを、鮮明にして、整理して、かみくだいて説明する。

しかし、この映画の場合は、かみくだくとウソになってしまう。運命とか、感
応とか、直感というものが、うまく言葉で明らかにすることができない。

ベロニカもベロニクも、自分の中で感ずるその何かを家族や恋人に説明しよう
とするが、伝わらない。他によくある何かと結びつけられてしまったり、相手
の経験に照らし合わせて解釈されたり、とにかく言葉に出したとたんに、その
何かはするりと逃げていってしまう。

感じたものを、換言したり解明することなく、感じるままに受けとめる。映像
と音とで、それを実現させているのがこの映画。だからといって難解だったり
ナンセンスなものの羅列なのではなくて、きちんと、後が気になるストーリー
も用意しているところがすばらしい。

いわゆる「霊感」というやつは、私にはおもしろいほど、ないのだが、音楽や
色彩や雰囲気やトーンや、そんなものから言葉にならない何かを得ることが、
一種の霊感なのかもしれない。だとすれば、この映画は直感や霊感とは縁のな
い人にも、何かのひらめきを届けてくれる作品である。

■COLUMN
ポーランドで一度だけベロニカとベロニクがすれ違うシーン(ポーランドのベ
ロニカしか気づかない)は、ちょうどデモに参加する人々が広場に向けて走り
抜けるところだ。
デモ隊といえば、警察と衝突する場面がことさらに強調されたり、大声で叫ぶ
人を大写しにしたり、どこか町の異物のように映ることが多い。
しかしこのシーンでは、デモ隊が真正面から映るわけではないこともあるのだ
が、異物感なく町に溶け込んでいるように私には見えた。

1990年頃、本当に東欧の町ではデモが風景の一部と化していたのかもしれない
し、撮っている人間の眼差しに優しさがあるからでもあると思う。またそれ以
上に、この町がたとえ喧噪の中にあっても、そこにいる者たちを包みこむとこ
ろであるかのようにも感じた。

ポーランドといえば、ワルシャワしか知らなかった私は、最初ワルシャワだと
思いこんでいたのだが、ここはクラクフというポーランド第三の町なのだそう
だ。
17世紀まではポーランド王国の首都。戦災を免れ古い建物が残っていることも
あって、日本でいえば(いう必要があるのかどうかわからないが)京都だろう
か。先日亡くなったヨハネ・パウロ二世はクラクフ郊外の出身で、教皇になる
まではこの地区の大司教だった。クラクフに作られたポーランド最古の大学は
彼の母校であり、地動説のコペルニクスもこの大学の卒業生である。

前述のシーンは、13世紀終わりに建設された、200メートル四方もあるという中
央市場広場でのできごと。ベロニカの歩く回廊に囲まれた石畳が、古いヨーロッ
パの重みをしょった魅力をたたえている。

「どこの国行きたい?」という実現性の低い希望をおしゃべりすると、東欧に
行ってみたいなーと、プラハとかブダペストとかウィーンを挙げていたのだけ
れど、クラクフを知った今、私は「断然クラクフ」である。

■おことわり
今回の原稿を書くにあたっては、
堀江敏幸氏の小説『河岸忘日抄』に着想を得ています。


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編集・発行:あんどうちよ

Copyright(C)2004-2005 Chiyo ANDO

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